「真実の名を教えてくれ」と問われたときに、どの名前を答えよう。
子役時代から俳優を続けてきたことや、苗字の珍しさと個性(特によく羽ばたいていたダンサー期)との整合性がとれていたことから、俳優としても本名で活動していた。たとえ画数があんまりよくなくても。
初めてあだ名を作ったのは6歳の頃に趣味のHPを作った時、ネットリテラシーがきちんとしていたので、”ハンドルネーム”を作り、なんかそれこそ「ゆあてゃ」みたいな日本語離れした音だったので、割と気に入って、高校時代もその名前で呼んでもらっていた。性別はおろか、人間かどうかも分からない「ぽよ」とした響きが気に入って。
社会に出始めると「天羽くん」「天羽さん」「あもー」と呼ばれることが増えた。「しょうご」は被ることもあるけど「あもう」という音はなかなか被らないので、あだ名不要。この頃から、自分の本名がとてもパブリックなものだなと感じた。それこそ、何か事件を起こしたら本名=芸名だし、病院で「あれ、天羽さんって銀英伝出てました?!」って声をかけられたりして、俳優:天羽尚吾と社会における天羽尚吾は、世間から見たら同一なんだなと、ちょっとプレッシャーも。
その頃から、僕のプライベートでの呼び名が乱立し始めた。本名をもじった愛称だったり、新設された名前だったり、バイトのために使う名前だったり。その名前で呼ばれると、ちょっと「天羽尚吾としての責任」からはフリーになった気がして楽しかった。
久しぶりに会った友達に、昔のあだ名で呼ばれると、一瞬びっくりするけど、ゆあてゃ(ではないけど)だったころの記憶や感覚が蘇って、セーブしておいたデータをロードしたような感覚になる。今の自分が忘れていることを、その名前で呼んでくれる友人は覚えていたりする。ありがとうシナプス。
ロンドンでは「Shogo」と呼ばれる。たまに「しょうぎ」や「しょうじょ」になるけど、それもそれで好き。これまで、天羽同志の集まりや、限られた人にしか「尚吾」と呼ばれてこなかったので、新たな自分のセーブポイントが増えた感覚。それにはどんな思い出が詰まるんだろう。
台湾や中国系の友人は、いわゆる通称を持っている子も多くて「History」や「Art」みたいにカッコいいのから、春生まれだから「Spring」、シンプルに「Nancy」とか、なんかそれも羨ましい。もし作るならどんな名前にしようかな。あと「真実の名前」を聞かれたら、君が呼んでくれたら全部真実だよ。って答えるね。