ロンドンへ行くことが決まってから、100回以上泣いているのは、愛猫のうらと離れることについて。
とはいえ僕がどんなに泣いても、説明しても、二年会えないことは通じないだろう。えぐ…
猫と暮らしている人は、それぞれの愛の形があると思う。僕は、認識と、言葉が通じないけどコミュニケーションはとれることに、深く安心する。
多くの人間は、知らぬ間に他者をジャッジしカテゴライズしたり、されたりしている。出来得る限り先入観なく人と触れたいと願っていても、まだ。
しかもそれが、国籍、体型、貧富、性別や年齢、自分じゃどうしようもできないことや、世間のカテゴリーに当て嵌りたくないときさえも作用してしまうことがある。そしてその価値観は、お互いの思いや歴史に作用される。どんなに好きな人とでも残酷にすれ違うこともある。
だけどうらは、メシを出す、毛を梳かす、痒いところをかく、冬は暖かく、夏は涼しい奴、くらいとしてしか認識していないだろう。それが大変ありがたく、心地良い。
別にうらは僕がどんな格好をしていようが、肌が荒れてようが、オーディションに落ちようが、貧乏だろうが、英語が思うように話せなかろうが、世界中の人から嫌われようが、どーでもいいのだ。それをジャッジする価値観がない。
だけど今夜も、外敵に襲われづらいだろうし、撫でるし、いい枕であるという理由、もしくはなんとなくで寝るときに側に来てくれる。
僕は自分勝手に、その信頼を愛と呼ぶ
おやすみなさい。