ロンドンでQueer East Festivalのオープニング作品として北野武の「首」を鑑賞した。ホモエロティックなシーンは確かに描かれているが、誰も男色に思い悩んでおらず勝手に生き生きとヤリ合ってる潔さが、ある意味ラディカルで面白い。西洋的価値観の影響がまだ弱い頃の日本。
しかし一方で、ビートたけし演じる秀吉の、どこまで出世しても武士や男色の美意識の中で生きられず、壊れた望遠鏡で戦地を覗く外野の「百姓上がり」に過ぎないという悲哀、そしてそれを凌駕するシュールな面白さの複雑さと比べると、男色の描写はとたんに甘くぼやけてしまう。だから、これはクィア映画ではない。いや、Queer Eastが勝手に招致したわけだが(この団体自体はすんごく応援中)
裸で横たわる光秀と村重の布団は驚くほど乱れておらず乾燥していて、匂い立つものが何も無い。たびたび挟まれるキスシーンにも、出世を目論む瞬間や、生き死の瀬戸際より遥かに薄っぺらく、「なんかまあ、北野武監督が言ってるし…頑張るか…」といった気おくれしている空気すら感じる。
ゲイじゃない俳優や演じたりすることで、躊躇や無理解がにじみ出てしまうのであれば、どうしてクィアなクリエイティブ陣やら俳優陣、あるいはインティマシーコーディネーターの力を借りられないのか。実は「出世のために男色まがいをしている」という演出であれば、その白々しさに意味が宿ったかもしれないが、「百姓」である秀吉が理解できないほど燃え上がっている描写としては不十分。
唯一、予告編にも登場する信長が刀の先についた饅頭を村重に食べさせ、血みどろになった口に接吻をするシーンは、三島的な倒錯感と迫力に満ちていた。好みではないが。
別に生々しくする方向じゃなくても、男色をもっと面白く、もっと気まずく描く方法は無数にある。他のシーンと同等か、それ以上に。
これだけ予算をかけて、男色をロマンス以外の形で描こうとする試み自体は非常に面白く、どうにか助成金を貰って短編作品を作っている各国のクィアアーティストから相当な嫉妬を集めているだろう。だからこそ、監督・北野武には作中の秀吉のように「わかんねえや」で済ませないで欲しい。